私は、めんどくさい要素を持った現実の女性が嫌いだ。
だから美少女ゲームに耽溺し、自分の都合にいい女性を偏愛するようになった。
しかしSSSS.DYNAZENONによって気付かされたのだ、現実の尊さを。
いや、思い知らされたのだ。
現実に無数に存在しているであろう、めんどくさい一面、男の都合に合わせたかのような救済装置、救済装置としての要素を何ら持たない、リアルな女性像。
儘ならなさ、ありのままの姿を受け容れてでも、
共に前に進んでいこうと思ってしまう要素を持った異性の存在、その尊さに。
だからこそシン・エヴァンゲリオンと言うかエヴァンゲリオン新劇場版全般で描写されていた「男性の自分勝手な都合に合わせた」かのような女性像には違和感を覚えた、
いや、抱かざるを得なかったのだ。
何せ、エヴァではキャラクターの心理的描写は省かれる傾向が強い。
いや、強すぎたと言っても過言じゃない。
ミサトには「あんた破でシンジの背中を後押ししたでしょ?」と思ったし、
レイには「あんた何者?一体全体誰なん?」と思ったし、
アスカには「何なんだよアンタ、まるっきり理解不能なんだが?」と思ったし、
マリには「アンタが主人公に好意を抱く過程が全く描かれていないんで、
アンタの心情は微塵も理解出来んし共感も出来ません」と思ったのだ。
SSSS.DYNAZENONを見てからではシンエヴァで描かれていた女性像には、
悉く違和感を感じざるを得なかった、と言うのがより正しい実像かも知れない。
そもそも主人公である碇シンジは、何故世界を背負わなければならなかったのか。
彼は望んで救世主になった訳ではなかった。
また、劇中で積極的に世界の救済へ動いていく動機も描写されなかった。
彼は彼の与り知らぬ所で”救世主として選ばれてしまった”だけで、
何ら彼に積極的に世界を救うべき動機は劇場版にてついぞ描かれる事は無かった。
確かに、新エヴァンゲリオン劇場版の細部への異常な執着心、妄執、執念とも言い得る描写は私にテレビ版を見てから30余年を経て尚強烈だった。
丁寧な細部の描画は、さぞかし世間ウケは良かっただろう。
世間に無数に存在している異性のリアリティー溢るる像に無知蒙昧であった頃の私(=SSSS.DYNAZENON未視聴の私)には庵野監督らの描いた微に入り細を穿つ描写はさぞ魅力的に映ったかも知れないが、同作品による解呪を経た後に見てみれば拙劣そのもので、「チープで俗悪、三流未満の駄作」としか評しようがなかったのである。
結局「エヴァンゲリオンシリーズ」では女性を男性に対する都合のいい救済措置・救済装置としてしか描いていなかったのであると気付いて、進歩の無さ、マッチョイズムへのコンプレックスの強さの裏返しだったんだ、自分と同じだったんだ。という事に気付き、改めて愕然とした。いや、せざるを得なかったのだ。
この世に唯一無二の”我”を曲げてでも手にし、擦り合わせ、富める時も貧しい時も共に”これから”を歩んでいきたいと思えるもの。それが異性であり、生涯のパートナー・真なる意味での友人と言えるものなのだ。
それをSSSS.DYNAZENONはたった12話で私に教えてくれた。
これからも、いつでもタイミングが許せば私はSSSS.DYNAZENONを視聴するだろう。
そう言っても過言じゃない出来栄えの作品だった。
嬉しい事に、これからもSSSS.シリーズは続いていく。
これほど生きる理由になる作品は、そうそう出会えるモノじゃない。
ただ、私にはそう思えるであろう異性との出会いにはこれまでもなかったし、
これからも恵まれないであろう事は嘆くべきなのか、喜ぶべきなのかは分からない。
ただ、この作品との出会いに感謝と敬意を表せざるを得ないのは確かだ。
それだけは間違いない。